文京区には、多くの教育機関、大規模病院、出版社、印刷会社などが集まっています。
また、住宅地も多く、現在でも古い街並みや住居が数多く残っている地域です。
文京区は東京都23区内で中心部分に位置しており、江戸時代には多くの大名屋敷があった地域でした。
江戸時代から明治へと変わり、明治11年には文京区の前身である小石川区と本郷区が誕生しました。
当時の明治政府は、欧米に並ぶ近代国家を目指しており、教育に力を入れる方針を打ち立て、広大な土地を持つ多くの大名屋敷は大学などの教育機関に姿を変えました。
東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)や東京大学などが設立され、多くの出版社が大学周辺に集まってきました。
それとともに、森鴎外や夏目漱石、樋口一葉など多くの文人が居住するようになりました。
1947年(昭和22年)に、当時の小石川区と本郷区が合併し文京区となりました。
区名である「文京」という名前は、旧小石川区の職員から募集した区名案の中にありました。
教育機関や出版社などが多く、「文の京」「文教の府」と呼ばれていた両区を表す名称に相応しく、また「文京」の文字が書きやすかったことで区議会により採決されました。
音羽は南北に細長く、東に小日向台地、西は関口台地に挟まれた小さな区画です。
北側の端は護国寺、南側の端は神田川に面しています。
中央南北には、護国寺の参道で将軍御成道だった音羽通りが縦断します(護国寺は、桂昌院の願いで綱吉が建立を命じた寺院です)。
その両脇に住宅や出版社、印刷会社、製本会社などの企業が連なっています。
また、有名な鳩山会館も音羽にあります。
音羽という地名は、江戸時代に名付けられました。
大奥の奥女中であった「音羽」が、桂昌院(江戸幕府5代将軍綱吉の母)に仕えていたこともあり、護国寺の門前町である土地を与えられました。
そこから音羽という地名になったそうです。
江戸時代の音羽は、紙漉き業が盛んだったそうです。
現在は暗渠となってしまいましたが、以前は音羽通りの脇に弦巻川と音羽川(水窪川)が流れており、豊富な水があったことで紙漉きに向いていたようです。
明治中期には70軒ほどあった紙漉き家でしたが、洋紙の伝来と共に紙の需要が和紙から洋紙へと変わっていき、水質の悪化なども影響して次第に衰退していきました。
ところで、音羽には護国寺から神仏分離によって、音羽に遷座してきた今宮神社があります。
また、今宮神社境内にある末社に、天日鷲(アメノヒワシ)神社があります。
この天日鷲神社は、明治9年に音羽の紙漉家一同が阿波国忌部神社から分霊を迎えた神社です。
忌部神社は、紙祖神である天日鷲命を主祭神とする神社で、紙漉家一同が商売の発展を願い音羽の地に勧請したとのことです。
文京区には5つの台地(関口台、小日向台、小石川台、白山台、本郷台)があり、それぞれの台地には谷が入り組んでいるため、区内は起伏に富んだ地形となっています。
そのため坂が多く、文京区によると名前のついている坂の数は113ヶ所もあるそうです。
音羽界隈も坂が多く、電動アシスト付き自転車で幼稚園の送り迎えをしている方を多く見かけます。
現代の文京区では、電動アシスト付き自転車は必需品になりつつあるのかもしれません。
坂の形態も、長くゆるやかな坂や、歩きでないと通れない急な階段状の坂など多種多様です。
名前のある坂に加え、名前のない坂も多く、場所によっては少し歩くだけで上り下りを繰り返します。
名前のある坂は、その由来から当時の歴史の一端がうかがえる坂もあります。
文京区弥生にある異人坂は、明治時代に東京大学で働いていた外国人教師の官舎が坂上にあり、当時珍しかった外国人が多く往来したことに由来します。
文京区小日向にある切支丹坂は、坂上に切支丹屋敷があったことに由来します。
他にも、数多くの歴史的背景をもつ坂が文京区には存在しています。
文京区についてはこちらもご覧ください。