活版印刷まで入れると、文京組版の歴史は、戦争が終わってから3年後の1948年(昭和23年)にまで遡ります。
東京都渋谷の山手線ガード下に、共栄社として始まりました。
創業時は、菊四裁印刷機と手フート印刷機(手動式平圧印刷機)でキリスト教関係の本や名刺を主に印刷していました。
工場は4坪程(畳8畳くらい)でとても狭く、印刷機の紙当て台が出っ張って建物からはみ出してしまうため、印刷する時は入口のガラス戸を取り外していました。
また、ガード下なので、電車が通るたびに振動で活字棚から活字が落ちてしまうような環境でした。
それでも、敗戦で何もかも物が不足していた時代にあっては、場所があるだけでも幸せなことでした。
その翌年の1949年(昭和24年)に、文京区音羽町7丁目(現在の文京区音羽1丁目)へ移転し、福音印刷所と改称しました。
さらに、受注の増加に対応するため、工場を豊島区池袋に建設し、福音印刷株式会社を設立しました。
印刷機も増設し、タブロイド版の新聞や、B5版、A5版の機関紙などを印刷するようになりました。
とはいえ、工場は薄暗く、文選※は40ワットの電灯を移動させながらの作業でした。
活字は、1日に2〜3回ほど活字店へ自転車で買いに行っていました。
当時の日本は、自動車は少なく自転車が全盛でした。
印刷物の配送も、自転車につないだリアカーに載せていました。
敗戦で、物不足ながらも復興に向けて、人々が必死に、力強く生きていた時代。
そんな頃が、文京組版のはじまりです。
日本が敗戦から復興していくにつれ、印刷物の受注、種類も少しずつ増えていきました。
それに伴って、設備投資を行い、所有していた活字もベントン活字へ切り替えるなど、活版印刷の品質が向上していきました。
事務所や工場も、豊島区池袋5丁目(現在の豊島区池袋本町)から文京区雑司ヶ谷町64番地(現在の文京区目白台3丁目)、そして文京区宮下町(現在の文京区千石4丁目)へと移転を行い、その度に凸版印刷機の増設を行っていきました。
印刷物は、1950年代後半になるとオーディオ機器のカタログや取扱説明書なども印刷するようになりました。
そして、高度成長期とともに、カラー印刷を要求される時代となったのです。
カラー印刷は、凸版印刷機での原色版印刷で対応していましたが、1970年(昭和45年)には本格的にカラー対応をするためオフセットの4色機を導入しています。
福音印刷では、1966年(昭和41年)に、文京区音羽に工場を新設しオフセット印刷機の導入を開始しました。
その後、年月が進むにつれて、印刷は活版(ホットタイプ)からオフセット(コールドタイプ)へと徐々に移り変わっていきます。
福音印刷における活版印刷は、1967年(昭和42年)頃までが全盛時代でした。
それでも、活字組版の設備増設は、1978年(昭和53年)まで行っていました。
1971年(昭和46年)には、効率的な頁物組版を行うため、モノタイプ型K.M.T.全自動組版機(小池製作所)を導入しました。
活字組版は、写植組版が導入されてからもしばらくの間は、モノクロの頁物組版が主流だったのです。
文京組版における活字組版=活版印刷は、1983年まで35年以上の長きに渡りました。
文選(ぶんせん): | 原稿を見ながら、使用する活字文字を用意する作業。 |
植字(しょくじ、ちょくじ): | 活字を並べて版を作る(組む)「組版」。 印刷会社では慣用読みで「ちょくじ」とも読まれる。 |
鋳造(ちゅうぞう): | 母型といわれる型に、鉛(実際には鉛、アンチモン、錫の合金)を流し込んで活字を作る。印刷するにつれて、活字が摩耗してしまうので、仕事の度に新しく活字を作り直す必要があった。 |
母型(ぼけい): | 活字を鋳造するための型(雌型)。文京組版では、千代田活字の母型を使用。 |
紙型(しけい): | 組み上げた版を保存しておくための母型。再版がある印刷物は、あらかじめ作っておいた紙型に鉛を流し込んで再版用の版を複製した。 |
K.M.T全自動活字組版機: | 入力機と活字組版機からなる、活字組版と鋳造を自動で一度に行う一連の装置。 |
入力機: | キーボードを使用して文字入力を行い、紙テープに穴を開けて(鑽孔[さんこう])入力データを記録する装置。 |
活字組版機: | 自動活字鋳造機。鑽孔機から出力された紙テープを読み込んで、棒組状態で活字を鋳造する。小池製作所の活字組版機は岩田活字の母型を内蔵。 |
印刷が、活版印刷からオフセット印刷へと移り変わっていくなか、組版の方法も変わっていきました。
写植、と略される写真植字が、オフセット印刷の台頭とともに利用されるようになったのです。
この写植時代に得た組版技術や知識が、現代のDTPによる組版に受け継がれています。
文京組版では、オフセット印刷機導入とほぼ同時期の1966年(昭和41年)に手動写植機SK-3R(写研)を導入しました。
導入当時は、版下入稿に対しての文字修正で主に利用しており、まだまだ活字組版が主流でした。
その構造や操作方法から頁物には不向きだったことや、オフセット印刷に比べて活字文字の力強い印字が、書籍など文字物印刷を中心に好まれていたこともありました。
しかし、印刷機や刷版などの改良もあって、オフセット印刷技術が進歩し、文字物印刷でもオフセット印刷が増えていきました。
また、写植機も複雑な組版への対応など、徐々に改良されていきました。
文京組版では、1976年(昭和51年)に写研の和文写植機 PAVO(パボ)-Jを導入しました。
このPAVOの導入と、当時の写植オペレーターの技術により、写植による本格的な組版を行う時代になりました。
それまでは、ブロック単位で文字入力を行い、版下でレイアウトを行っていました。
それが、レイアウトされた状態のものが、1枚の印画紙に出力されるようになったのです。
写植機は、より効率的な入力が行える電算写植機が登場します。
従来の手動写植機は、手でレバーを下げる=シャッターを切る、ことで文字入力を行っていました。
また、入力=印字のため、打ち間違えた場合は、打ち直すか、版下で修正をすることになります。
電算写植機は、専用キーボードによる入力と、入力後のデータ保存による修正対応、レーザープリンタによる校正紙出力など、頁物組版において大幅な効率化をもたらしました。
文京組版では、1983年(昭和58年)に写研の和文電算写植用入力機のSABEBE(サベベ)を導入しました。
導入当時は、入力装置だけで出力機はもたず、印画紙出力は協力メーカーに依頼していました。
SABEBEは、ディスプレイがなく、データの保存には紙テープが使われていました。
当時としては先進的だったと思いますが、出力を依頼していた協力メーカーには、テレタイプによる通信でのデータ入稿も行っていました。
翌年の1984年(昭和59年)にはSAZANNA(サザンナ:写研)や出力機(SAPLS-Laura SS、 SAGOMES、RETTON)なども導入しました。
その後、電算写植の入力は、専用ハードウエアのSAZANNA SW313、SP313から、ワープロ専用機(OASYS、書院)やMS-DOSアプリケーションのワークス(アルクス)を利用するようになりました。
データの恩恵はとても大きく、Micro VAX II(DEC)やSYSTEM38(IBM)を使って、カラオケ早見表の曲の並び替えを行い、そのデータを利用して電算写植による組版を行うようにもなりました。
1990年には、電算写植機SAIVERT(サイバート)- H202を導入しました。
サイバートは、柔軟性の高い編集機能を持ち、画面上でレイアウト確認をしながら作業が出来ました。
レイアウトのみならず、実書体で表示できるので、WYSIWYG(ウィジウィグ)を実現していた写植機でした。
また、多言語の取扱説明書の組版用で、1985年(昭和60年)に欧文電算写植機 SCANTEXT SYSTEM 1000(Scangraphic:スキャングラフィック)を導入し、8言語の欧文マニュアル制作を開始しました。
1988年には、より高度なレイアウトができ、画面上でレイアウト確認ができるSCANTEXT SYSTEM 2000(スキャンテキスト)を導入しました。
SCANTEXT SYSTEMを利用した取説の組版は、1996年まで行っていました。
本格的にデータを扱うようになった電算写植は、高い自由度や効率性を組版にもたらしました。しかし、組版のみならず、製版の領域にまでデータを扱うDTPがまもなくして登場します。
活字組版に比べ、写植組版の時代は短く、それは目まぐるしい変化の時代でした。
活字の時代から写植の時代へ移り変わったように、組版は写植と平行しながらDTPの時代へ入っていきます。
文京組版でのDTP設備の導入は、1994年(平成6年)で電算写植機を導入してから約10年後のことでした。
アプリケーションは、QuarkExpress 3.1とAldus(アルダス)PageMaker 4.5、Adobe(アドビ)のIllustrator 3とPhotoshop 2.5。
設備として、Macintosh Quadra 700と650を各1台、Power Macintosh 8100が2台に、プリンタとしてMICROLINE(マイクロライン:OKIデータ) 801PSを2台という規模でスタートさせました。
当時のDTPアプリケーションでは、写植で組むような高品質な日本語組版を行うには、機能的に不十分でした。
それでも、図形や画像をレイアウトに組み込んだデータが、パソコン画面上で見ることはもちろんのこと、編集さえも出来ることは画期的でした。
実験的な側面が大きかったDTP導入でしたが、そこには将来的な可能性が見えていたことは間違いありませんでした。
今後、デジタル化が組版のみならず、プリプレス全体におよんでいくことがわかったのです。
翌年の1995年(平成7年)には、DTPを行う部門のスタッフを増員し、設備、アプリケーションも追加していきました。
出力環境も整え、イメージセッタ(DTR-2065:大日本スクリーン)とRIP(PostArt PRO[ポストアート プロ:ソニー])を導入し、本格的にDTP化への移行が始まりました。
また、WindowsによるDTPも、Windows 3.1とAldus PageMaker 5の組み合わせで1995年から開始しました。
1995年は、Escher-Grad(エッシャグラッド)のEG-8000とポリエステルベースの銀塩プレートを実験導入し、CTPの検証も行っています。
そして1996年(平成8年)に、プレートセッタ(α3200:三菱製紙)とRIP(AD-310PM:大日本スクリーン)、アルミの銀塩プレート(デュポン)によるCTPの運用を多言語の取説を中心に開始しました。
一部の仕事ではありましたが、入力から刷版までのデジタル化が一気に進んだのです。
これに伴い、DTPオペレーターは従来の組版オペレーターと比べ、組版以外の工程までカバーするようになりました。
DTPでの仕事では、スキャニングや色補正、面付けなどを、製版や刷版のオペレーターではなくDTPオペレーターがそれらの作業も行うことがありました。
製版や刷版のデジタル化が進むまでしばらくの間でしたが、DTPでの仕事に関しては一人のオペレーターが面付けまでをこなしていたのです。
当時は、Windowsも含め、各アプリケーションやOS、ハードウエアなどDTP環境のみならず、各工程の知識を覚える必要がありました。
結果として、広く浅い知識となることが多かったのです。
昔は、DTPでの組版は写植と比べて「汚い」とよく言われたものでした。
日本語特有の組版ルールに欧米産のレイアウトアプリが対応していないのでうまく組めない、組版知識のない人がDTP作業を行っている、この二つが大きな要因でした。
また、関東においては、見慣れた書体とは異なる字形もDTP組版に対する違和感となっていたようです。
当時、DTPのデファクト・スタンダード(事実上の標準)であったQuarkExpressは、各メーカーのExtention(エクステンション=機能拡張)によって日本語組版に必要な機能を補完してきました。
また、オペレーターの創意工夫と併せて、QuarkExpressでの組版を写植の頃のような組版へと近づけていったのです。
QuarkExpress以外では、写植のような組版ができる国産の日本語組版システムなどもありましたが、あまり印刷会社に広まることはなかったようです。
そして、2001年に登場したInDesign 1.0日本語版によって、DTPは写植に近い品質の組版が以前より簡単にできるようになりました。
ところが、当時のハイスペックなMacintoshを使っても、仕事で使用するには厳しいほど動作が遅く、文京組版も含め、世間ではQuarkExpressが主流の時代はしばらく続きました。
しかし、DTPを取り巻く環境は、アプリケーションやOS、ハードウエアが長足の進歩をとげ、今ではInDesignがQuarkExpressに変わってDTP組版におけるデファクト・スタンダードになりました。
現在、文京組版では、多くの場合においてInDesignで組版をしています。
図録や辞典などでは、InDesignを使って自動組版を行うこともあります。
手帳など、自動処理で組むものや、返り点(レ点など)がある漢文など特殊な組版を行う場合は、AVANAS BookStudio(アバナス ブックスタジオ:大日本スクリーン製造)を使用しています。
1948年から始まった文京組版における組版は、時代と歩むように変化を続けてきました。
しかし、その根底にある組版のノウハウは、時代が変わり、使う技術が変わっても脈々と受け継がれています。